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2007-2009 『CO・OP NAVI』誌(コープ出版)連載
第1回 インスタント世代のだしの取り方(2007.4)
子どものころの記憶で妙に残っているのが、いつも台所にあった箱買いの即席ラーメン。その第一号の発売は昭和33(1958)年。ちなみに私は昭和35年生まれで、これはインスタントコーヒーの生まれ年と同じだ。
当時、赤い屋根にテラスのある新居(芝生の庭にはつるバラのアーチと、砂場や小さな池がしつらえてあった)を建てたばかりの母にとって、即席ラーメンは流行のおしゃれな食べ物だったようだ。60年代は食品のインスタント化が飛躍的に進んだ時代で、私はまさにその時代に生まれ育った。
さて、そんな時代に育った私は、気づけば「正しいだしの取り方」を伝承されていない。今や時代はナチュラル志向で、食育も叫ばれているというのに。まずいね、まずいよ。危機感を感じた私は、日本料理の通信教育に手を伸ばした。
「わあ、ちゃんと取っただしってうまいのね!」 興奮して周囲に話したが、興味のない層からは冷ややかなまなざしと「ちゃんとやってえらいねえ」という言葉が戻るばかり。なんでだよ、みんなやろうよ!
しばらくして気がついた。これまで人生で蓄積してきたものとは異質の味覚に出合って、私の脳内にはアドレナリンが放出され、多少の作業はいとわない精神状態になっていたのだ、と。その証拠に、半年も経たないうちにかつお節削り器は棚の上で埃をかぶることになり、わが家には再びインスタントだしが復活した。アドレナリン効果の終焉だ。確かに、だしを取る作業が苦にならない人もいる。でも、習慣のない私には結局「苦」なのだ。暮らしに根付かない。これはどうにもならん。
雑誌業界の友人の話によると「今の主婦層は圧倒的に手間のかからないことを望んでいる」。しかし、「情報として飛びつくのは、ひと手間かけた暮らし」らしい。最近流行の「ていねいな暮らし」を描いた情報でアドレナリンが湧き出しても、持続して暮らしに取り入れるには至らないものって、実は結構多いのかもしれないな。主婦ってフクザツ・・・。
というわけで、私が考えた苦肉の策が、コーヒーメーカーを使う方法だった。紙フィルターをセットして、ここに市販のかつお節の小袋を一人1パックの目安で入れる。あとは普通にスイッチを入れるだけ。これだけでインスタントより格段にうまい。乾燥わかめやとろろ昆布を入れたカップに注げば、簡単にお吸い物になるし、使っただしカスは紙フィルターのまま、ポイ。サーバーを洗えばにおいはあまり残らないが、抵抗がある人は、だし専用にコーヒードリップを買って、やかんのお湯でゆっくり抽出する。こっちの方法は、会社でのお弁当のお吸い物なんかも作れるから便利じゃないのかな。
この方法を以前新聞で紹介したら、かなりの反響をいただいた。ただ、反応してくれたのは圧倒的に男性が多く、中には「うちでやったら妻から全面禁止を言い渡された」という人も。コーヒーを入れるものにかつお節とは何事か! だしカスは佃煮になるのにポイとは何だ、と。そういうこだわりが主婦にはあるもんだし、夫のやることが癇にさわる側面も、なきにしもあらず。自分も含め、主婦ってほんとに妙にフクザツなもんだ。
とりあえず、インスタント世代の私はこんな方法でどうにかラクチンに食を維持しようと、試行錯誤の日々なのだ。よかったら試して感想を聞かせてくださいな。
第2回 食欲妄想と献立計画(2007.5
あなたは通勤電車の中で突然、「茹でたてのそら豆が食べたい」と、ひらめいたり、あるいは、突如、口の中におでんの味がよみがえり、「あー!おでん、おでん。煮込んでとろっとした餅きんちゃく。じゃがいもの煮崩れたやつも・・・」とコーラス状態の妄想で頭がいっぱいになってしまうことはないか。私は、ある。
こういう突発型食欲妄想というのは誰にもあるものだと信じていたのだが、知り合いに聞いて回ったら、そんな経験はほとんどない人が結構いることに驚いた。ももせ周辺調査によると、「食べたい!と思うけど、結構すぐ忘れる」という、淡白系食欲妄想の人が50%。私のように、1週間たっても「ああ、おでん。おでんが食べたい」とねちっこく思い続ける、執着系食欲妄想が25%。妄想自体がほぼ存在しない、非妄想系が25%という比率になった。あまりに身勝手な調査なので、きちんと調べてくださる方がいらしたら、ぜひ教えていただきたいところ。
さて、この食欲妄想が日々の献立に大きく影響しているのではないか、というのが今回のテーマ。さらに言えば、「その人の生き方の"くせ"によって、献立の立て方も違っていいのでは?」と、ももせは考えるわけです。
たとえば、「まとめ買いをして、素材をたれに漬け込んだり、下ごしらえをしながら一週間の献立を決めてしまえば、食費も節約できるし調理もラクだ」という発想は、主婦雑誌などで繰り返し紹介され続けているが、これは突発性食欲妄想型には到底向かない。そもそも、火曜日にフライと決めておいて、急に「かつおのタタキが食べたい!」と思ってしまったらどうする? 堅実な献立計画に反旗を翻し、「ええい、寿司だ、ステーキだ!」と突然外食に走って、散財する危険性はないのか。私は、あるぞ。
再(大文字)び勝手な周辺調査だが、まとめ買いや保存食の作りおきで献立を考えられる人は、暮らしも長期スパンの計画を立てて守るのが上手な気がしてならない。一方、献立計画通りの食生活がなかなか送れず、スーパーで妄想の罠にはまって散財する人間は、人生が衝動的な決断で成立していることが多いようだ(それは、私)。だから、せめてもの防衛策として、基本の消耗品や必需品を宅配で最低限そろえたら、あとはその日の気分と体調で直前に献立を決め、足りない素材を買える分のお金だけ財布に入れて、商店街に買い物に行くのである。献立計画にしばられず、急な思い付きを楽しめる余裕を残しながら、無駄買いを防ぐという苦肉の暮らしの知恵。
ま、つまりは、作りおきや保存食、計画的な献立といったあたりのものは、生き方のレベルで"相性のいい人"と"悪い人"がいるわけで、こうした「賢い家事の方法」を探るよりは、まずは自分の性格と生き方のクセみたいなものを把握することが、日々の家事がうまくいくためのスタート地点なのかなあ、とも思う。
ちなみに、「家族で家事を!」と主張している私だが、料理の牙城だけは守り続けている。突然食べたいと思ったものをその日の献立にできるのは"家庭の料理人の特権"であり、これだけは譲れない日々の楽しみなのだ。
第3回 ほっとく料理と食育のジレンマ(2007.6)
最近、「ほっとく料理」にはまっている。いろいろ方法はあるが、私のは炊飯器を使うやり方。鍋で野菜や肉を一度煮立てたあと、中身を炊飯器の釜に移して保温ボタンを押す。これで買い物にでも出かけている間に、煮崩れることなく火が通って楽チンなのだ。
ところが先日、この上をいく便利な文明の利器がわが家にやってきた。それは、おかずを保温しておくための保温庫つきの冷蔵庫。これで保温調理をしているのだ。60℃に設定した保温庫に煮立てた鍋を入れて放置しておくと、しっかり煮物ができる。安全のために8時間を過ぎると自動的に保温から冷蔵に切り替わる機能がついているので、うっかり忘れても腐ることがなく、夏場の保温調理も安心してできるのがうれしい。煮物は冷えるときに味がしみこむから、煮たあとに冷やすのは理にかなっているのかもしれない。
以前、食材を真空パックにしてスチームオーブンで低温調理する方法を教えてもらい、そのおいしさにびっくりしたことがあるので、低温調理やスチーム調理ができるオーブンにも興味があるこのごろ。
さて、私はこんな冷蔵庫やオーブンの話を持ち出して、メーカーのPRをしようとしているのではない。そろそろ、この手の簡単で新しい調理法ができる機器と、そのためのお手軽な食品があれこれ普及してもいいんじゃないのか?と思うのだ。
"電子レンジでチン"の文化が生まれてから45年。当初は手抜きと疎まれることもあったチン文化は、いまや多くの日本人の胃袋を日々救っている。コンビニの弁当をチン、お弁当用の冷凍食品をチン、インスタント食品をチン。家庭ばかりではない。ファミリーレストランやチェーン店のメニューも、レンジのボタンひとつで作られているものがあるという現実。
しかし、こうした食生活の変化の中、子どもたちの味覚がおかしなことになり始め、「食育」の必要性が叫ばれている現代。でもさ。正しい食卓を維持するには、膨大な時間とエネルギーがかかるでしょ。インスタントとチン文化に慣らされてしまった世代を、昔ながらの料理の認識で「教育」しようと考えるのは、時間もかかるしハードルも高い。そんな悠長なことでは間に合わないんじゃないの?と不安に思ったりもする。
例えば、栄養のバランスが取れたおいしい料理が真空パックになり、調理ボタンを押すだけでおかずができるとか。材料と調味料を入れてボタンを押すと、勝手に調理してくれる新しい調理器具とか。そんな味覚や調理プロセスがよくわかる「食育」商品が多く流通して、料理が苦手な人も食生活が維持できると考える方向のほうが、私はなんだか現実的だという気もしてしまうのだ。
電子レンジのチン文化で得た大きな利便性の裏で失ったものを、また新しい文化で取り戻す。もっとおいしくて、健康的で、安価な半加工食品や、電子レンジに変わる世紀の発明があってもいいんじゃないのかしらねえ。買うわよ、私。家電や食品メーカーさん、頑張ってほしいです。
第4回 エアコンの快楽と罪(2007.7)
今年の4月、日本気象協会の北海道支社が「気温の急激な上昇が予想されるので、車の運転や夫婦げんかに注意」という、冗談のような注意報を発令してびっくりしたのだが、これは「気象病」というれっきとした現象で、ドイツなどではかなり前から関心をもたれているらしい。気温が急激に変わると、体調不良や気分が落ち着かなくなるなど、からだに変化が起こり、ぜんそくやリウマチも症状が悪化するのだとか。別名が「お天気病」。へぇ〜。
確かに、雨降り前に気圧が下がると肩や腰が凝るとか、湿度が高くなると頭痛がすることは私にもある。でもまさか、急激な温度変化が「夫婦喧嘩」に関係しているとは!
温度変化といえば、梅雨から夏場、家の温度をどうコントロールするかは、毎年大きな関心事だ。からだにも地球にもお財布にも負担をかけないよう、これまでうちでは玄関にルーバー扉をつけて、風が家の中をまっすぐ通り抜ける道を作ってみたり、ベランダに照り返しの少ないウッドデッキを敷く、なんていう工夫をあれこれ試してきた。
外出から帰ったら、まずは換気して部屋の温度を下げてから、エアコンのスイッチを入れる。また、エアコンの風が足元に落ちないように、専用の羽も買ってつけたし、扇風機を併用することもある。とにかく環境のためにもエアコンはセーブして効率よく使おう! というのが、わが家のルールなのだが、これを家族が守るかというと、これはかなり難しい。
エコだ、環境問題だと言いつつ、やっぱり"冷え冷え"の部屋の悦楽というのは捨てがたいのだ。電気代とにらめっこしている私はまだ自制が利くが、満員電車やスポーツ帰りで汗だくの家族にまで「エコな暮らし」を押し付けるのは、酷ではないか。汗をかきかき戻って、キンキンに冷えた部屋でくつろぐ。そんなささやかな暮らしの楽しみまで「エコ」という水戸黄門の印籠みたいな言葉で奪われたくないよね。そう思って目をつぶってきたし、私もたまに冷え冷えの悦楽に埋没した。だって気持ちいいんだもの!
しかし、冷えた部屋から急に炎天下に出かけるとか、蒸し蒸しの満員電車のあと、キンキンに冷えた部屋に戻るとか。そんな温度変化の繰り返しが「イライラや気持ちの落ち込み」につながるのだとしたら、これは見逃せないのである。ただでさえ、扱いの難しい思春期の息子をかかえるわが家で、室温くらいで言い争いが起きてたまるか!
というわけで、暑い外から戻って来る人のために、冷蔵庫におしぼりタオルを常備することにした。部屋の温度は外気とさほど大きな差をつけないようにして、とにかく帰宅したらすぐ服を脱いで、冷たいタオルで首筋をひやし、扇風機に当たってもらう。そして、カラカラと音を立てる涼しげなグラスの麦茶でも飲んでもらい、からだの熱が逃げるのを待つ。インテリアも夏仕様に変えてみよう。せめて視覚で涼を呼べるように。
今年の夏は、エコよりも「家庭平和」のためにエアコンをセーブ。にこにこ笑って夏が乗り切れますように!
第5回 散らかる家の不思議(2007.8)
生活実用書で、一番売れる分野が「収納」なのだそうだ。狭い家に住む日本人には、それだけ収納の知恵が求められているのだとも言える。でも友人の編集者によると、実は「何をやっても、結局成功しないことが多いからこそ、似たような内容の本がいつまでも売れるのだ」と。なるほどねえ。わが身を振り返っても、これはよくわかるぞ。
どんなに収納アイデアを駆使しても、なぜか家は散らかる。隙間家具や籐のかごを使って頑張っても、すっきりきれいなおうちにならないのはナゼなのか。答えは簡単だ。そんなことなどおかまいなしに、日々散らかす家族がいるからだ。
そこで、以前私の取った苦肉の策が「居間からソファをなくす」だった。まずソファに座って雑誌を読んだら、そのままそこに放置するやつがいる。一度モノが滞留すると、それが「何か置いてもいい場所」というサインとなり、脱ぎ捨てたトレーナー、持ち帰った紙袋などがどんどん堆積する。雑誌も紙袋もちゃんと収納場所があるのに、散らかるのだ。そこで、ソファを撤去したところ、本来の収納が正しく機能して居間はすっきり! 散らからない部屋を作るには、家族の心理をうまく利用した作戦も必要なのだな。
さて、そんな私に「家事がラクになる間取りを考えてもらえませんか」という依頼が住宅会社から来た。おお。それはおもしろい。ぜひ「散らからない作戦」というのも考えましょう。間取りからダイナミックに考えるなんて、贅沢で楽しい試みだ。
まず、玄関横に大きめのウォークスルー・クロゼットを作る。家族はここを経由して居間に入り、コートや上着、居間に放置されがちな荷物類はすべてここに。郵便受けから受け取ったDMを分けて、いらないものを捨てるゴミ箱も用意。余計なものは部屋に入る手前でキャッチしてしまおうというもくろみだ。わが家では玄関脇にあった納戸を、こうしたファミリー・クロゼットとして使ったことがあるのだが、これは本当に効果大だった。
ここから家族は手洗いのあるランドリールームを経由して居間へ入る間取り。靴下、汚れたシャツを脱ぎ、運動着などの洗濯物を洗濯機に入れて、手を洗ってから「ただいま」。このランドリールームは洗濯、物干し、アイロン、下着やタオル類の収納までを集約させている。汚れた衣類、たたむのを待たれる衣類があちこちに滞留しないための工夫だ。他にも、家族の書類をまとめた情報ステーションを居間に、ファミリーライブラリを個室の横に作った。これはリフォームしなくても、今の間取りで工夫できることも多い。
自分を含めた家族の動線と、物が家の中をどう移動しているかを把握するのが、散らからない家の第一歩。これが滞留しない仕組みづくりをすれば「今よりは散らからなくなる」はず。でも、どちらにしても家族で暮らせば家は散らかるわけで、それが幸せの形なのかもしれない。「せめて居間だけはすっきり」と、場所を決めて取り組むのが、現実的なのかもしれませんねえ。
第6回 家事と脳みそのキャパシティー(2007.9)
生育児休業を取った後、働き続けたい人のための「職場復帰準備講座」という催しがある。この講師をここ数年続けているのだが、ここで会う新米ワーキングマザーさんには、いつも最初に「家事と仕事と育児の両立は無理です!」と言うことにしている。
こう言うと、たいていの人は"ぎょっと"する。そりゃそうだ。両立するための知恵を聞きにきた場所で、「無理だ」と言われるのだから。でも、「皆さんがこれまで考えてきた、家事と仕事と育児をすべて一人でしようと思ったって、できるわけがない!という意味で"両立は無理"なんですよ」と説明すると、なるほどと納得してくれる人が多い。
家事や育児では、「食材の管理」とか「必需品の補充」などを常に脳みそにインプットしておく必要がある。加えて「浴室の隅のカビ」とか「窓枠にたまる埃」などに気づく目も必要だったりする。家事に専業できる人にはこうした気配りの余地があるのだが、ほかの懸案で頭がいっぱいの時は、ここはどうしてもこぼれ落ちていく。もう、これは仕方ないよねえ、と思う。人の脳みそにはキャパシティーってものがあるのだ。
世の中には仕事オンリー、家事オンリーといった立場でのライフスタイル情報が多いから、つい「両方ともちゃんとできない」と自己嫌悪に陥ってしまいがち。だけど、大変な時期には必要以上の家事を抱え込まず、周囲にたくさんSOSを出しながら、「たとえ家事も仕事も60%しかできなかったとしても、両方あわせれば120%。今はそれで十分」と割り切ることも大切だ。働く若いお母さんには、そんなことを伝えたいなあ、とよく思う。
さて、そんな私も子どもの手が徐々に離れ、仕事も在宅が多くなってゆとりの時間が増えたことで、昔は気がつかなかったさまざまなことに目が向くようになってきた。
押入れの奥の整理、ガス台の汚れ、玄関タイルのくすみ。ぬか漬をしたり、お菓子を作るゆとりも出て、家は格段にきれいになって、食事の質も上がった。そうか、そうだったのか。家事がうまくできなかったあの頃、私が目にする生活誌にはいつもこんなきちんとした暮らしの情報が満載で、まともな家事ができない自分にいつも自己嫌悪を感じていたのだけれど、あの情報は今の私のような人が作っていたんだなあ(笑)。
最近は、仕事との両立よりも、更年期、親の病気や介護、子どもの進路などで気持ちが占領されて、脳みそのキャパシティーが減っている。主婦である自分は、どうしても家をきちんと維持しないと、と考えてしまうのだけれど、人生なんて、晴れの日も雨の日もある。「そんな自分の心の内に合わせて家の風景も変わるのだと割り切ったほうが、暮らしも面白いもんじゃないのか」、と思うようになった。また、「今日は雨降り!」と宣言して家事を放棄する日も増えた。
時には無駄な家事を合理化して、人に助けを求め、必要なら道具を買ったり、外注して乗り切る。共働きの時の知恵は、人生の後半戦でもちゃんと役に立つのかもしれない。
第7回 わが家の食糧問題(2007.10)
せんだって、赤城元農林水産大臣が大きな絆創膏を貼って、公の場に現れて衆目を集めた。話題は絆創膏に終始したが、あれが農水省主催の「食の未来を描く戦略会議」の初顔合わせの場であったことについては、ほとんど話題に上らなかったと思う。実は、私はその戦略会議の委員で、ナマで大臣の絆創膏を拝ませていただいたのです。いやはや、びっくり。
安倍内閣の肝いりで始まった、この会議。しょっぱなから赤城大臣の辞任でこのままフェイドアウトなのか?と心配もしたが、今年いっぱいはちゃんと開催される見込みだ。ちまたでは地球温暖化対策がブームのようになっているが、食糧問題もかなり切羽詰った状態に瀕していることは確かなのだ。
家事はプライベートな営みであるようでいて、実は社会や自然と離れがたくつながっている。洗濯排水は川へ流れ、食事を作ればゴミが出る。消費の末端でサービスを享受する私たちの購買行動が、流通の世界を動かし、国境を越えて、遠い世界の産業までをも動かしている。日々の家事の折々に、生産や流通の世界で何が起きているのかを考えることも、私たちの暮らしを守る大切な仕事のひとつじゃないのかなあ、とよく思う。
さて、そんなわが家でも現在、大きな食糧問題が起きている。息子が13歳になり、正しく反抗的思春期を迎えたのだ。もとから好き嫌いが多かったのが、ここに反抗心が加わって食事の選り好みをするようになった。さらに悪いことには、食いしん坊の私の息子に生まれたにもかかわらず、彼は食にほとんど興味がなく、休日にほうっておけば朝も昼も食パンをかじっているだけでまったく平気、という体たらく。人の作った食事を平気で残すようになってきたのだ。
「一日30品目、朝ごはんをしっかり作り、好き嫌いなくバランスよく食べさせよう――」。母の義務として、そんな食事作りを心がけてきた私は、とりあえず嫌いなものも食卓に並べ、いつお腹がすいてもいいようにと生協の冷凍食品も買い込んでいる。しかし、豊かな時代に生まれた反抗期の中学生は、こんな状況下で、食べ残しのゴミを生み出すだけなのだ。
ああ、あほくさ。食料自給率が40%と先進国の中で最低水準の日本にいて、ぜいたくに食べ残しては捨てているんだぞ、お前は。しかも世界では、一年間に日本の耕地面積を上回る500万ヘクタールの農地が砂漠化している。地球温暖化と人口増加も食料事情にとっては深刻な問題なのだ。よって、かあちゃんは食べ物を残すやつには、もう余計なものを作らないことにする。食費もゴミも減るからありがたいもんだ。ついでに、軍隊式ダイエットビデオを買い込んで、飛んだりはねたりしている大人たちも、無駄な脂肪を燃やすぐらいなら最初から余計なものを食べなければよいのだ。
コンビニやデパ地下にあふれかえる食料品を見るたびに、「少なく作って、ほどほどに食べよう」とよく思う。わが家の食糧問題も、どこかで世界とつながっている。かあちゃんもしばし、真剣に食について考えることにします。
第8回 暮らしぶりは、顔と姿勢に出る(2007.11)
まだ30代半ばの頃、一人で昼食を取ろうとレストランに入った折、隣の席の女性の食べる姿から、目が離せなくなってしまったことがある。年のころは60歳くらい。きちんとテーブルクロスが掛かったこの店の中で、彼女は靴を脱いで椅子に正座し、ひじをついて皿の上に覆いかぶさるような姿勢で、中華丼を食べていた。その顔に表情はなく、視線は斜め前に落ちたまま・・・。
食べる姿とは、なんと無防備なのだろうと思った。この人は家でも、こんなふうに食べているのだろうか。一人暮らしなのか、それとも伴侶はいるのか。伴侶がいるとしたら、2人でテーブルに向かい合って、こんなふうに食べるのだろうか。失礼とは思いつつ、彼女の私生活を想像してしまう私。
日々の習慣は、そのままこうして無防備な瞬間に、顔や姿勢に出てしまうのかもしれない。その姿を見て、「私は家にいるときでも、背筋を伸ばして食べよう。一人のときも食べることに意欲的に、おいしいとおいしいと、明るい顔で食べよう」そう思って背筋を伸ばしたことを思い出す。
その後、当時勤めていた会社を辞めて、私は在宅で原稿を書く仕事をするようになった。自宅の仕事部屋で原稿を書きながら洗濯機を回し、食事を作り、気が向けば普段着のままサンダルを履いて買い物に行く日々。
ある昼下がり、洗濯機から洗濯物を取り出していたら、玄関のチャイムが鳴った。あわてて出ようとしたら、振り向きざまに洗面所の鏡に自分の顔が映った。「だ、だれ? この眉間にしわを寄せた、不機嫌そうな女は!」鏡の中の自分は、ほおはたるみ、口はへの字に曲がり、背中はだらしなく丸まっている。ショーック!
そうか。「日々の習慣は、無防備な瞬間に顔や姿勢に出てしまうのか・・・」と学んだ、あの日のレストランの風景が頭をよぎる。考えてみれば、家事も子育ても、斜め下を向く作業がとてつもなく多いのだ。洗濯、そうじ、調理。子どものおむつ換えにお風呂。ついでに言えば、仕事に出たとしても、デスクワークのほとんどは下向きなのだ。あかんでないの。
その日以来、家のあちこちに鏡を置くようにした。ジャージの普段着をやめ、朝起きたら化粧をして身だしなみを調え、スリッパでぺたぺた歩くのをやめて、少しかかとがあるルームシューズを履くようにした。
知人は、外出予定がない日でも、朝起きたらストッキングを履いてそれなりの服装をするのだという。それで、気持ちが引きしまり、オンとオフが切り替わるのだそうだ。
家でおしゃれしても仕方ないでしょ、という女性もいる。でも、顔や姿勢は社会と向き合うための大事な窓口で、日々の習慣で作り上げられていくものなのだ。あきらめてはいけない。放棄してはいけない。
家事をしながら、たまに鏡で今の自分の表情を確かめてみる。また、家族としか会わない日でも身なりを整え、一人でも、背筋を伸ばしておいしいものを、明るい表情でいただく。それはきれいでいるためだけでなく、きちんと社会を向いた外向きの自分でいるために、とても大切なことなのだ、と思うこの頃なのです。
第9回 理想のお母様の呪縛(2007.12)
もう7年前のことになるが、5歳の息子を友人の薦める受験塾に入れたことがある。小学校受験をすると決めたわけではなかったが、未知の世界への興味もあったのだ。
はじめての授業の日。10人ほどの生徒を前に、先生はイラストの描かれたボードを高く掲げて、こう尋ねた。「これは何の絵ですか?」「これは何に使うものですか?」。
ボードにあるのはアイロン。聞かれた子どもは元気よく質問に答える。次の絵はお鍋。息子の順番は3人目だ。掲げられたボードに描かれていたのは、ミシン。
「これは何の絵ですか」「ミシンです」「何に使いますか」「縫うときに使います」。よかった、答えられた! そう思った矢先、「おうちにミシンはありますか?」。
そうきたか。いや、家にミシンはあるぞ。どうにか対面は保てる。「はい」と息子が答えたところで、先生は静かにこう付け加えた。
「そうですか。では、そのミシンでお母様は、最近何を作ってくださいましたか?」。
私は穴があったら入りたい気分になった。ちゃんとしたものなど作ったことないのだ。 帰りがけに先生は言った。「年中行事を積極的に体験し、毎日の暮らしのお仕事をしっかりお子様にも見せてさし上げてください。小学校受験にはお母様のご協力が不可欠です」。
自分が期待されている母親ではない気がした。罪悪感でいっぱいになった。いい母親にならなければ。アイロンをかけなければ、裁縫しなければ。気持ちが右往左往したことを思い出す。もう遠い思い出だ。
そんな体験ばかりが続いて、結局わが家には向かないと判断して塾は2カ月でやめてしまった。その後、息子は地域の公立小学校に入学したが、その選択を私たちはまったく後悔していない。でも、今でも時折思い出す。アイロンや鍋やミシンの絵を見せて母親の習慣を聞く、あんな無意味なテストの前で、なぜ私は罪悪感で右往左往してしまったのだろう、と。
「幸福」に共通の形なんてないはずなのに、私たちはそれを象徴するような風景を暮らしの中にコレクションすることで、自分の幸福を確認したくなることがある。例えば、「レースのカーテンのかかるリビング」「広いキッチンでコトコトと煮えるビーフシチュー」などなど・・・。確かに、暮らしの仕事には幸福につながる風景がたくさんあって、それに癒やされることも多い。
でも、そこに「いい母親」の視点が加わると、事態は変わっていく。子どものためという大義名分で期待されるものが、そのまま自分の評価にもつながる。だから、不安を呼ぶ。不安を埋めるために、必要以上に義務感を感じて頑張る。それが7年前のあの日、私の心をざわつかせた正体だったのかもしれない。
ちまたには暮らしを豊かにするための家事のノウハウや教育論があふれている。そんな知恵をコレクションしてよりよく生きたいと願う一方、どこかで「いい母親」を演じたくなる自分のエゴにも気づいていないと、手痛いしっぺ返しが待っている気がする。
「いい母親」より「よい加減の母親」ぐらいがいい。ま、ぼちぼち頑張りましょうか。
第10回 家事語りのジレンマ(2008.1)
私が家事をテーマに文章を書くようになったきっかけは、フルタイムで働いていた頃の経験から、「きちんとやる家事」ではなく、「時間と手間を減らして同じ結果を得る」ための家事の知恵を伝えたいと思ったから。
洗濯物は乾燥機にかけて、畳まずにカゴに放り込めばいい。米は無洗米で。ベッドに羽毛布団なら畳む手間も布団干しもいらない・・・昼間家にいない人間が、何とか快適に暮らすための苦肉の策だったが、ふたを開けたら、同様に時間がない中で家事をこなしている人たちから支持を得て、取材やインタビューの依頼が増えた。ありがたいことだ。
ところが。こうして「家事語りの人」になると、大いなるジレンマが私を襲うようになった。雑誌の特集やテレビ番組の取材で、こんな質問を頻繁に受けるようになったのだ。
「梅雨時にしておいたほうがいい家事について教えてください。衣類の上手な管理方法についてアドバイスを! 夫が部下を急に家に連れてきたときのとっさの家事は?」。
うむ。上記に関する私の答えは、こうだ。
「梅雨時だからといって特に何もしなくても暮らせます。衣類はクリーニングに出しちゃえば? 夜に部下を連れてくること自体がルール違反!帰ってもらいましょう」
とはいえ、作り手はこんな回答は期待していない。カビの予防、衣類の虫干し、5分でできる簡単料理・・・などのアイデアを出してくれ、とせまられる。責任感から、自分なりに精一杯答える。結果、やらなくてもいい場所に、無理やり家事のノウハウを詰め込んで、日々の仕事を増やすことに加担してしまう。ああ、なんかすごいジレンマ!
そして、最近、私を悩ませているのが、以前は「家事」のカテゴリーでほとんど話題に上らなかった、こんなテーマの質問が激増していることだ。ダニ、花粉、アレルギー、食育、エコ、温暖化とゴミ問題……。もちろん意識しているし、意見もきちんと言える。でも、ここにノウハウを提供するのはとても難しい。一概に合理化すればいい、素通りしていいとは言えない。でも、まじめに取り組めば確実に日々の仕事は増える。
考えてみたら、10年前に家事について書き出した頃、私が戦っていた見えない相手は「正論」だった。良妻賢母、正しい家庭の呪縛なんて気にせずに、自分のライフスタイルで柔軟にやればいい。特に家事は、もっともっと合理化できる。そう思ってきた。
21世紀になり、そんな正論がだんだんなりを潜めるようになり、気持ちがラクになった反面、最近の私たちは新たな「恐怖」と向き合うことが増えたのでは?と思うようになった。
「おうちにはダニや雑菌がいっぱい! 子どもの食が危ない! 格差社会に取り残される」。そんな恐怖を前提にしたノウハウが今、必要以上に生み出されていないか。人は恐怖には抗えない。これって正論より手ごわいなあ。ほんと、ジレンマだ。
家事はおもしろい、そして難しい。バランスよく暮らしのノウハウを捉えられるように、まだまだ修行が必要みたいです。
第11回 近くでとれたものがうまい(2008.2)
友人とドイツを旅してきた。10年前にしばらく滞在したこともあるのだが、今回はそのドイツの食の話。
とはいっても、「家庭で火を使う料理を作るのは、日に一度だけ」と言われているほど、保存食を冷たいまま食べることが多いドイツ。たとえばソーセージやハム、魚介類の酢漬けや燻製に、キャベツの酢漬け、パンとビールがあれば立派な食卓になるというわけ。
でもさあ。もし日本で、こんな食材をスーパーで調達して食卓に並べたら、一日で嫌になってしまわない? ハムと酢漬けだけのごはんなんて、わびしいー! そんな思いで目の前のソーセージに手をつける。
あれれ?うまい。堅くてすっぱいと思っていたドイツのパンも、焼き立ては味わい深く絶妙だ。隣を見れば、パンに巨大なニシンの酢漬け(だけ!)を挟んだサンドイッチを食べている人がいる。青魚の酢漬けとパン? いやいや、これが意外にイケルのだ。
旅の非日常性が、食事をおいしく感じさせるということもあるかもしれない。でも、明らかに現地で食べるハムやソーセージやパン、そしてどこでも山盛りで出てくるボイルしたジャガイモはうまい。ビールと一緒にぱくぱく食べまくって、しあわせ!
さて、そうしてたっぷりぜい肉をつけて帰国した私は、たまたま手にした「世界の食料自給率表」をぼんやり見ているうちに、その数値においしさの理由が隠されていたのではないか、とハタと膝を打った。例えば、ドイツの穀類自給率は101%、イモは119%、肉は96%だ。一方、野菜は44%、果実は37%と低い。つまり、ドイツの人たちは自国で取れるものを中心に、似たようなものを食べ続けているのだ。
近所の肉屋が自前で作っているハムやソーセージ、早朝から開いているパン屋で作られているものは、大工場で作られて輸送されてくるものより数段おいしく、ドイツでは、こうした食材を購買するスタイルが根付いている。輸送の時間もコストもかからない食べ物は、シンプルに食べてもうまい。そして飽きない。
さらに例を挙げると、どんな店に入っても野菜のサラダやグリルが最高においしかったイタリアの野菜の自給率は122%。山盛りのオレンジを絞ったジュースがおいしいスペインの果実の自給率は143%だ。近くでとれた食材を、すぐに、おいしくいただく。それがごはんの一番自然な形なのに、今の東京ではなかなか手に入らないぜいたくなのかもしれない、とも思う。
先日、初めて出版された「ミシュランガイド東京版」で、世界一のグルメの都と称された東京。でも一方で、日本の総合食料自給率は39%にしか過ぎず、肉も魚介も50%、かろうじて野菜が79%というのが現実だ。私たちは、輸入でまかなって成立している食料品売り場の風景を見慣れ過ぎて、食材はなんでも手に入ると勘違いしてはいないか。
やはりごはんは、暮らしている地域で取れるもの、旬の食材をシンプルにいただくのが一番! 旅先の食事に、そんな当たり前のことを教えられた旅でした。
第12回 ゆるゆるとおもてなし(2008.3)
実家の母は「うまいもん好き」だ。事あるごとに各地から名物を取り寄せたり、高価な刺身や肉を調達しては食卓に並べる。子ども時代はそんなごはんも楽しかったが、はて。いつからか、こうしたごちそうの食卓が「なんだか疲れる」と思うようになった。
それぞれがうまいものばかりなのに、なぜだろう、と考える。やがて「すべてのお皿にストーリーが存在するから」なのではないか、と思うようになった。百グラム千円したお肉、旅行先でみつけた調味料、料理本で見た○○風サラダ、2日かけて煮込んだシチュー。すべてが作り手の思いと物語をはらんで、「どう、おいしい?」と問いかけてくる。食材の出自や調理の手間を求めて足を運ぶレストランや料亭なら、ストーリー満載の食事も楽しい。でも家庭の食卓でこれは、疲れる。ただゆでただけのスナップえんどうとか、あっさり煮た根菜とか、そんなものがまぎれているとほっとする。家庭の食卓の「おいしさ」というのは、そんなところにあるんじゃないか、とよく思う。
結婚後はいつからともなく、自宅に人を招くときはなるべく「主役のごちそうは1品」「主張するおもてなしは最低限に」と考えるようになった。気配りされすぎた豪華な食卓は疲れる。調理や配膳や、おもてなしに奔走する人を見るのも疲れる。「それ、ゆでただけなのよ。まだあるから作るよ、簡単だもん。お皿はそのあたりの適当に出して使って。ビール? 冷蔵庫に入ってから勝手に出して飲んで」。そんな頃合がいい。そして、そんなゆるゆるした空気の中にも、気持ちのいいおもてなしの心を忘れずに、帰るときに「おいしかった、楽しかった」と感じてもらえるような招き手になりたい、と切に思う。
そんなゆるゆるのおもてなしで、最近楽しかったのが「闇鍋」パーティだ。わが家の狭い居間に10人集まることになった。持ち寄りにしてもいいが、私もみんなも忙しい。さらには持ちよりはすべてのお皿に各人のストーリーが盛り込まれるので、うまいうまいと食べ続けるのは意外と疲れるものなのだ。
「一番好きな鍋の材料一品と、自分の飲み物を必要なだけ持参のこと」と案内した。2つの鍋を稼動させて、集まった材料をどんどん放り込む。足りないなあと思ったものだけうちの冷蔵庫から出して、味付けもその場でみんなで適当に考える。主婦の立場になると、呼ばれる側も手伝いの頃合を考えたり、料理を残すことに気を使ったりと、何かと気持ちはせわしない。材料だけ持ち寄って集まるというのは、なかなかどうして、気を使わなくてすむ楽しいイベントだった。
以前に同じようなことを、「闇すき」と称してすきやきでやったこともある。この時は「肉だけ用意する。あとは一番食べたいすきやきの具を1品持参のこと」。しらたき、お麩、ねぎ、豆腐と白いものばかりが集まって、これはこれで本当に楽しかった。
家庭のごちそうやおもてなしは、ゆるゆると。立派でもかっこよくなくていいから、気持ちのいい場を作りたいものだと思います。
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