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2007-2009 『CO・OP NAVI』誌(コープ出版)連載
第13回 来客前、帰宅前の小さな儀式(2008.4)
世の中にはKY(空気が読めない人)なんていういやーな言葉が流行している。確かにKYな人はいる。でも暗黙の「その場を満たす価値観」を読み取ることを要求される世の中ってどうなのよ。きな臭いじゃないの。
でも、そんな風にKYが取りざたされるということは、「目に見えない空気感」が歴然と存在してることを、誰しもが感じているということなんだろう。横並びの価値観を空気として「読め」と期待されることには抵抗があるけれど、私は暮らしの中の「あわただしい」空気感はないほうがしあわせじゃないか、よく思う。
たぶん、しばらく前の私は、せっせと暮らしの中にそんな空気感を振りまいていたのだ。主婦といえども忙しいのだ。時間を有効に活用せねば。ああ、家の中ってどうしてこんなに、次から次へとやることがいっぱいなの?? そんな具合。
例えば、外出が重なった日のあとに来客がある。あわててそうじをして、食事の準備であたふたした気分のまま「いらっしゃい」と玄関を開ける。コートはそこにかけてね、はいスリッパ。うち散らかってるでしょ? 今週忙しくてね。何もごちそうないけど食べて行って。言いわけを繰り返しながら、キッチンと居間を行ったり来たり。
お客さんだけじゃない。家族にだってそうだ。食事の準備のあとは洗濯だ。生協の注文もしなくちゃ。あ、アイロンもかけないと。ちょっと、どうしてそこを散らかすの? ああ、忙しい。あわただしい。ったくもう!
そんな「お母さんは忙しいの!」という空気感は、知らずと家の中に満ちる。不思議なもので、家の居間や職場の会議室などの狭い空間では、こんな「あわただしい空気感の人」が一人紛れ込むだけで、場がざわめき立つ。元気が出る場合もあるけれど、焦燥や怒りを含んだあわただしさは、場に居心地の悪い不安感を残すものだ。
そこで、ちょっと前からこんな儀式をするようになった。お客さんが来る日は、予定の15分前になったらすべての作業をやめて、居間に座って静かな音楽を聴いてくつろいでおく。家族が仕事や学校でちょっと頑張った日は、帰宅時間にあわせて自分のお茶の時間を作ってぼんやり休憩したあとに、ほっとした気分で出迎える。場と自分が落ち着きを取り戻すと、「いらっしゃい」「お帰り」という言葉のトーンが、自分でもびっくりするぐらい変わるのがわかる。たった15分でも、暮らしにとても大切な時間なのだと思う。
ああ、なんだか忙しい! と思ったら、座って15分。底からかき回されてにごってしまった泥水が、だんだん沈殿して澄んでいくようなイメージを思い浮かべながら目を閉じてみる。コツは、自分の心の中だけではなく、周りの空気感まで含めて一緒に落ち着かせようと思うこと。あわただしい暮らしの中の、私のちょっとしたおまじないだ。
知らないうちに大切な人や家族に「私のこのあわただしい空気を読め」なんて期待するかあちゃんにならないように。ゆったりどっしり構えていたいなあと思うこのごろです。
第14回 ゆるゆる暮らす(2008.5)
衛生観念というものは、実に人それぞれだなあと思う。以前、買い物のレジ袋をじかにキッチンの床に置いたら「不衛生だ」と義母にたしなめられたことがある。謝ってテーブルに乗せたら、「そっちのじゃがいもが入っているほうの袋は床。泥つきのものをテーブルに乗せるなんて!」と怒られた。レジ袋に入っていてもだめなのか。難解だ。
友人には「義母がガス台下に入っていたざるを床に置いたあと、洗わずにそのまま別のざるに重ねた。無神経だ」とか「夫が板の間で洗濯物をたたんだ。汚いからすべて洗いなおした」という潔癖な人もいる。
聞くところによると、仕事から戻った夫の服を玄関先ですべて脱がせて着替えさせる妻も存在するのだそうだ。外のものを中に入れたくないという発想は、今の家が土や虫や動物・植物たちと大きく分断されてしまったということと、雑菌、ウィルス、花粉などの外から持ち込まれるものへのネガティブ情報がメディアを通じて大量に流れこんでいることとも関係しているような気もする。
外と内との境界線はなるべくゆるゆるしているほうがいいように思う。汚れや異物をある程度認めて、ちょっとぐらいいいやと思えるほうが、自分も周りの人たちも絶対に楽。そんな話をしていたら、アメリカから戻ったばかりの知人からこんな話を聞いた。
「日本人は世界でも飛びぬけてきっちりしたい人種なの。だからこちらで欧米人とルームシェアをすると、その大雑把さにノイローゼになってしまうことがあるのよ」。
試しにやってみて、と差し出されたのは彼女が作った「きっちり度テスト」。さっそくチェックしてみたら、私が○をつけたのは2つ。「どこでも生きていける! いい意味で国際派のアバウトさ」とほめられた(笑)。
項目をすべて紹介するスペースがなくて残念なのだが、暮らしの中で許せる・許せない線引きをしてみるというのは、結構おもしろいものだと思う。ちなみ私が○をつけたのは「タイヤを洗ったスポンジでお皿は洗えない」「運動靴をキッチンカウンターに置くことはできない」。ま、これはどうやっても無理。でも、「一度靴を履いたあとに忘れ物に気づいて、靴のままつま先立ちで取りに戻ったことなんて一度もない」。え? 3日に一度はやっているぞ。最近はつま先立ちじゃなくて、堂々と普通に歩く。だめか、これは。
「新しく買った服はまず洗濯してから着る」「一晩着た寝巻きは洗濯する」「果物は切ってなくても冷蔵庫に入れる時はビニール袋に入れ口をとめておく」というのもある。こんな発想を一切もたない私は、たぶん実行している人より家事時間も資源も大幅に節約しているはずだ。
きっちり度テストと聞くと、主婦としてはどうしても高い点数を取らなくてはとあせる。でも、きっちり度が低いことがさまざまな人とうまくやれる強みになり、それは結局、生きやすさやエコにもつながるような気がするのだ。だから何事もほどほどに。ばっちく、ゆるゆる生きたいと思う私なのです。
<きっちり度テスト>
・新しく買った服はまず洗濯してから着る
・トイレは毎回使用後ふたを閉める
・常時ハンカチを持ち歩いている。
・車のタイヤを洗ったスポンジで皿は洗えない
・果物は切ってなくても冷蔵庫に入れる時はビニール袋に入れて口をとめておく。
・哺乳瓶は生後一ヶ月過ぎても念入りに煮沸消毒していた。
・一晩着た寝巻きは洗濯する。
・運動靴を台所のカウンター上に置くなんてもってのほかだ。
・請求書やカードの支払いなどは、即処理するので滞納したことはほとんどない。
・一度靴をはいてしまった後忘れ物に気づき、忍者のようにつま先で土足のまま部屋まで取りに行ったことは一度もない。
・ペンやはさみを置く場所がきちんと決まっていて人に動かされるとイライラする。
・シンクまわりの水滴はこまめに拭く
・虫歯菌がうつるので、我が子ともコップは共有しない。
・飲み残しのジュースや牛乳の入ったコップはラップをしてから冷蔵庫に入れる。
・汚れた食器を流しに残して寝るようなことはない。
・財布の中のお札は偉人がみな同じ向き(表・上下)で入れてある
・外から帰ったら石けんで入念に手を洗う。
・写真は現像したらすぐ整理するので写真の束がたまってしまったことはない。
・更新など期限があるものをギリギリになって動くことはない。
・バスタオルはお風呂あがりできれいな体を拭いても一回使ったら洗濯する
第15回 主婦の自覚という着地点(2008.6)
ずいぶん前のことだが、ラップを焼却炉で燃やすと有毒ガスが発生すると報道されたことがあった。この時、テレビで学者さんが「きちんと分別して捨てることが大切。主婦の自覚が必要ですね」と話していた。
「えー? 主婦の自覚も大事だけど、害を発生させない商品に切り替えることに着手してよ」「弁当やお惣菜が大量に捨てられる現場もなんとかしてー」と一人でテレビの前で悶々としたことを覚えている。
似たようなことは、その後もよくある。食料自給率を上げようという研究会に出たら、「食事を作らない女性が増えている、外食や中食が増えている、朝食を食べない子どもが増えている」なんてことばかりを話したがる人がいる。で、こういうデータを見てひとしきり嘆いて、最後には「家庭の自覚を促す」という結論に着地しちゃうのだ。
私のまわりにはまじめな主婦が多いから、温暖化だからコンセントを抜こうといわれれば律儀に抜いて歩き、食育だと言われて必死におにぎりを握るおかあさんたちがいる。ちゃんとした人もいっぱいいるはずなのに、次から次へと自覚が要求されて、近頃の主婦はなんだか大変だなあ。
先日食糧問題を研究する先生にお会いする機会があったので、「最近食の問題が次々と起きていますが、直接食と密接に関わる生活者として、私たちが今できることは何なのかをずっと考えているんです。先生はどう思われますか?」と質問をしてみた。
先生の答えは「生活者が自覚を持つことです」。はい、おっしゃる通りだと思います。では自覚を持った生活者は、今具体的に何をすればいいと思われますか? 「正しい情報を得ることです」。えっと。その正しい情報は、どこに行けば手に入りますか? 「うむ………」。食卓を守る立場として、信頼できる具体的な情報はどこにあるんだろう? と考える生活者は結構いると思うんです。
食い下がる私に最後に先生はこう言って去っていってしまった。
「でもね。今は料理をする主婦自体が減っていますから。まずはそこを自覚することが必要でしょうね」。
あれれ、日本の食糧問題が、また「主婦の自覚」に着地しちゃうの?
あ、そうか! こういうとき「自覚を促す」というのは、もしかしたら一番言いやすい着地点なのかもしれない。生産や流通や、利権や営利がからむ仕組みを動かすのは大変だけれど、生活者の自覚を求めるのは結構簡単だ。自覚を求められれば頑張る人は結構いる。でも、そうやって問題の核心がぼやけて、言いやすい着地点に流れてしまうようなことって、あちこちで起きてないのかな。
最近は環境問題も食糧問題も、子どもの教育から夫のメタボリック対策まで、上から視点で生活者が「自覚」を求められる場面が増えたなあ、と思う。言われるがままに自覚して頑張るだけじゃなくて、知るべきことは知り、言うべきことは言う。こんな時代だからこそ、たやすい場所に着地しない意地を持った主婦でいたい、と思う私なのでした。
第16回 ユニバーサルっていいな(2008.7)
数年前に働くおかあさんたちの間で、一時期ブームになった家電があった。名前は「ルンバ」。円盤型の自動掃除機である。出勤前にボタンを押して出れば、帰宅時にはパンくずも埃もない家に戻ってこれるという夢のような家電。アメリカの製品で、当時はタカラというおもちゃメーカーが代理店だった。
あれ、どうなったのかなあ。やっぱりこの手の「ずぼら家事」系の道具は日本では普及しないかな、と思っていたら、最近また店頭でよく見かけるようになった。以前の機種は充電器の寿命などのメンテナンスに販売元が十分対応できず、一時期日本から撤退。昨年になって新しい代理店がメンテナンス体制を整えて売り出したのだそうだ。仕事がら、さっそくデモ機を借りてきて試してみる。
へー! いやあ、これ。ほんとにかわいくて利口もの。ぽちっとボタンを押せば、部屋を縦横無尽に走り回って、汚れをキャッチ。進入禁止区域を作ったり、タイマー設定できる機種もあって、そうじが終われば自分で充電器に戻っていくという賢さ。アメリカの地雷撤去ロボットの会社が作っているのだそうで、その意味ではなんともハイテク家電なのだ。室内犬の抜け毛に悩むわが家にとっては、救世主。すごいなあ、欲しいな、これ。
とはいえ、このロボットのお値段は7万9千800円と高額。周囲からは「自分で掃除機をかけたほうが早い」という声もあり、この手の家電が普及するのは、かなり難しそう。
そう思っていたら、少し前からパーキンソン病を患っている友人が「これ、すごく欲しい。掃除機って後ろ向きに歩くことが多くて、私はそこでよろけてしまうの。でも、高い。こういうものこそ、障害者保険で少し補助してくれるといいのにな」とぽつり。
メーカーに取材してみると、この自動掃除機、実は高齢者にとても人気なのだそうだ。言われてはっと気づく。そうか、掃除機をかけることって、実はとてもからだに負担をかける作業だったのだな、と。
家事を考えるとき、自分はユニバーサルな視点が持てているだろうか、とよく自問自答する。主婦はつい「そんなのちょちょいとできるでしょ」とか、「ささっとやっておけばいいのよ」なんてことを言ってしまいがちだけれど、それをちょちょいとも、ささっともできない人は、いっぱいいる。家族の形も、暮らしのスタイルも、生き方も違う人たちが、その人なりの健康状態や気持ちのありかの上に暮らしていて、そこに「普通」や「当たり前」なんてないのだなあ、きっと。
家事は日々の負担にもなるけれど、どこかで主婦の存在意義の確認材料だったりもするわけで、その意味では機械やサービスに頼って「ラクチン」に流れようとする人に厳しいまなざしを向けてしまうこともあるような気がする。でも、ちょっとユニバーサルな視点を持ってみれば、そのラクチンさが多くの人を救って、さらにはこの先の自分自身も楽にしてくれることに気づいたりもする。
お掃除ロボット。ああ、もちょっと安ければほんと、欲しいです。うう、どうしよ。
第17回 共犯関係の悦楽(2008.8)
家事をテーマに講演やセミナーをしたとき、よくこんなことを言っている。
「みなさん、家族が出払ったあと、誰もいない家で一人で家事をしていませんか? 家事は家族に見える場所でしてね」と。
最近、学校のトイレで大便を便器の外に落としてもそのまま帰る子どもが増えているのだとか。翌日には清掃の方がきれいにしてくれる。自分で始末をつけなくても、元通り。こういうのを想像力の欠如、というのだ。
「家の中はこんな場所がすぐ汚れる」「それは気づいたときに落としておくとあとが楽」なんてことは暮らしの中で自然に学ぶもの。だから家事は家族がいる時に見える場所で。そこで蓄積される視覚の記憶の大切さは、あなどれないなあ、とよく思う。
よく、家族が家事をしてくれたら「ありがとう」と感謝して役立つ喜びを知ってもらう、という話もあるが、これは「作業指示を出してねぎらう」というまさに上から目線の行為だ。幼児ならまだしも、大人や思春期の子どもにこんな方法は通用しない。
じゃあ、どうするのか。家族と家事の「共犯関係」を結ぶ。子どもが思春期になってからは、そう考えるようになった。
そのためにも視覚記憶は有効だ。「このフロアモップは大変使い心地がよろしい」「こういう隅っこに埃がたまるのよ」とよく見えるように口に出す。「ああ、きれいになった。ここにしまおう。例のCMの新製品らしいよ。よくできてるわ。ここにしまっておくね」。
「手伝え」という指示がなくても、汚れの因果関係と道具のありかがインプットされて、なおかつ道具が便利で出しやすい場所にあれば、誰かがどこかで動く。ホント。
道具や家電を一緒に選ぶのも効果ありだ。調味料や食材、洗剤に食器。いろいろトライして、小さなことでも楽しそうに発見を口にしながら巻き込んでいく。そして、今自分を手伝ってくれなくても、自分が不在の時にやってくれればいいじゃん。割り切って自分も楽しむようになったら、いろんなことがうまくいくようになった気がする。
ある方が雑誌で、「今日はお豆の筋を○ちゃんが取ってくれました。お皿はお父さんが出してくれました。ありがとう!」と手を合わせて夫と子どもたちに感謝して家事を共有していると話していたが、大人や思春期相手にこれは、私には違和感がある。なんたって一番感謝して欲しいのはいつも食事を作ってる私なのだよ! だったらこんな話ができる方が健康的で楽しいと思うのだ。
「お豆ってゆでると急に鮮やかになってびっくりするよね。それにさ、豆ってちょっと靴下みたいなにおいしない? むふふ」。
同じ作業をした者にしかわからない暮らしの悦楽。つらくて大変だから家事を手伝って欲しいわけじゃない。こんなにおもしろいのだから、一緒に楽しまなくちゃソン!
わが家の反抗期バリバリの中学生男子は、こんな共犯作戦には意外にもまだ素直に乗ってきて、台所でしきりに手のにおいを嗅いでいる。よし、まだまだ頑張るぞ!
第18回 鍵のかかる場所(2008.9)
私は家で仕事をしているので、原稿を書きながら目に付いた家事をしたりする。以前は自宅にいながら仕事も家事もできるなんて理想だ! と思っていたけれど、現実は意外に厳しい。先日もこんなことがありました。
今日中に書かなくてはいけない原稿があるのに、一行も進まない。うーん。ちょうど友だちから連絡があったので、愚痴ってみる。
「こういう時に限って、朝ごはんとかちゃんと作っちゃうの。で、洗濯機回しながら机に向かったら、通販で頼んだ電気ケトルが届いたので、煮沸してるうちに昼になっちゃって。一行も書けないので、とりあえずやる気を出そうと掃除して机周りを整理してたら、アイロンかけるシャツの山が目に入ってね。アイロンかけてたらもう4時なのよお。今日は私、まったく使い物にならないわあ」。
一行も書けずに気持ちはもう、ダメダメ感でいっぱいなのである。そんな私の愚痴を聞いて友だちは一言。
「あなた、働きすぎっ! 今日一日でどれだけのことしてるかよく考えてごらんなさい。それだけ家事すれば十分です!」。
言われてみれば、その通りなのだ。食事を作り掃除洗濯をしてアイロンをかけ、机を整理して電気ケトルの煮沸までしている私は、そんな家事に何の充実感も感じないまま、「ダメダメだわ」と思っているのだった。
昔友人から聞いた話なので出典は明らかでないのだけれど、推理作家のアガサ・クリスティが「女性に必要なもの」ということで、「仕事、収入、鍵がかかるひとりになれる部屋」の3つを挙げているとか。この日私は、はじめて「鍵がかかる部屋」の意味をしみじみ思った。家の中には無数の仕事が転がっていて、主婦である私の目はそこにいるだけで、思う以上にいろいろ仕事を拾い上げて動き回っている。あ、ゴミ箱に袋かぶせよう。砂糖が切れちゃったなあ。お、ベランダで鉢植えが倒れてる……。「鍵がかかる」というのは自分だけの世界を持つということだけでなく、生活の雑多な仕事を持ち込まない場所という意味もあるのだ、きっと。
家事には素敵な充実感を生む仕事もたくさんあるけれど、家にいるというだけで拾い上げてしまう無数の仕事で一日の大半が終わってしまうこともある。「鍵がかかる部屋」という言葉の背景にはこんな女性たちの日常があって、だからこそ家庭とすっぱり切り離した場所をどこかで確保するのはとても大切なのだと思う。主婦が家事仕事の傍ら、家の中で集中して何かに打ち込むというのは、実は案外難しいものなのだ。
最近、私はひとりで近所のファミリーレストランに行くことが増えた。狭いマンション、自分の部屋に鍵をかけてもさほど効果なしなので、外に出る。たとえ1時間でも、そこで集中して「本を読んだ」「何かを書いた」時間は、大切な充実感を生む。目に付いた家事をただこなす一日では得られない、こんな充実感が暮らしにはとても必要なのだなあ。
家事が進入してこない「鍵のかかる場所を持つ」。これも大事な生活の知恵なのかも。
第19回 マジョリティ、マイノリティ(2008.10)
8年前から、自治体主宰の働くお母さんのための「職場復帰準備講座」の講師をしている。
出産のあとの保育園の手配や復職の準備。不安だし、どこか社会に取り残されたような孤独感も味わう。こういうお母さんたちを集めて、「大丈夫だよ、仲間もいっぱいいるよ」と伝えて、ワーキングマザーライフのコツや家事のノウハウをお話する。そんなお役目。
そんな準備講座に、このところ男性の参加が目立つようになった。
「妻が職場復帰したら自分が育児休業を取るつもりだ」「妻と家事と育児を共有していく準備や心構えをしたい」。
質問も積極的にして、帰りは夫婦で仲良く並んで帰る。なんかうらやましいぞ。
8年前は、参加者は一様にこう嘆くのが常だったのだもの。
「夫が何一つ家事を手伝ってくれません。私が働くことにも反対しています。どうしたらいいでしょう」。
ここ7〜8年ほどの間で、時代は大きく変わりつつある。
とてもいい傾向だと思うのだが、ただ「子育てパパ」を標榜されすぎるとどこか鼻白んでしまう自分もいて、不思議な気分を味わう。
あれ? なんでだろう。
文芸評論家の斉藤美奈子さんの著著「それってどうなの主義」(白水社)の中に、この現象は20年ほど前のキャリアウーマン進出ととてもよく似ていると言うくだりがあった。女性が男性中心だった仕事の領域に進出したように男性は家庭内領域に進出しているわけで、だから「飛んでる男」として愚痴にかこつけて自慢や自己主張をしたくなる。マジョリティの側が淡々とやり続けてきたことを、新参のマイノリティにうれしそうに吹聴されるとばかばかしい気分になるし、自らの領域が侵される脅威も味わう。
だから「女は家に引っ込んでろ!」と叫んだ男がいるように、中途半端な家庭労働を吹聴しながら、パーティとかでオムツの話に興じる子育てパパなんかを見ると、抵抗を感じる女性がいる。これがつまり「ハウスハズバンド=キャリアウーマン説」だというのだ。
なるほどー! これはおもしろいなあ。
週刊誌で男性作家がもったいぶって離乳食の話を書くのを読んで「フン」なんて思っったり、「パパ検定」にむらがるパパになんとなくシニカルな目を向けてしまう私の心理は、ここにあったのか。うふ。
その昔、マイノリティであった女性たちは大いなるパワーを発揮して道を切り開いてきた。マイノリティ体験は、時として時代を変えるパワーを持つ。何よりも女性が社会に進出したよりは、今男性が子育てに入り込むほうが社会的には格段に追い風なのだぞ。
ただひとつ心配なのは、圧倒的に社会的マジョリティの位置にいる人が、その発想のまま子育てに参入してくること。
今、中学受験の世界に学歴社会を生き抜いてきたパパたちが大量参入して、子どもたちがかなりしんどい体験をしているのも事実だと思う。
「思い通りにならないものに向き合う」というのが子育ての醍醐味なのだ。
たくさん打たれて、へこんで、でっかくなるのだ。がんばれ、子育てパパたち!
第20回 景色が変われば自分も変わる(2008.11)
フランス語を習ってみることにした。
大学でちょっとかじったのち、すっかりご無沙汰してまったくしゃべれないのだ。
別にフランス語を仕事に生かそうとか、特別な目的があるわけでもない。ただ単に、「生きてるうちに一度でいいから、フランス人とフランス語で流暢に会話する自分を体験してみたい」というだけの動機で。そんなのんきな四十の手習いの場に選んだのは、住宅街の中のサロンのようなフランス語会話教室だった。
初めてのレッスンの日、私を待っていたのは、同じクラスの生徒である59歳の主婦Cさん。
「あともう一人いるんだけど、彼女は今1ヶ月半お休みしているの。パリにアパルトマンを借りて、一人で滞在中なのよ。来週には戻ってくるから紹介するわね」。わあ。パリで一人でアパルトマン暮らし。それは私が「死ぬまでにしたいこと」リストの筆頭に置いている願いごとではないの。
そうですか、いいですねえ。夏休みに滞在されているのかしら。学生さんなんですか?
戻ってきた答えを聞いて、びっくり。「あらやだ。彼女は71歳よ!」。ひえー!
最近はアラフォーといって、40代の女性が元気だともてはやされてはいるけれど、私の周りでは実は元気ではない40代も多く、「人生とっくに折り返して、あとは下り坂だけ」なんて言う人もいる。はて、それでは世間的には私ももう下り坂? と疑心暗鬼になりかけていた矢先。60代で勉強をはじめて、71歳で一人でパリのアパルトマンとは、元気が出ること百人力じゃないの。
「いい歳をして」とか「母親なんだから」なんていうものにがんじがらめになりかけた時、自分の既成の価値観を超えていってくれる人に出会えると、俄然勇気がわいてきたりして、「なあんだ、それでいいんだ」と肩の荷が下りて、急に楽になったりするものだ。
暮らしの仕事の中でも、こうした体験は多かった。
私は「そうじの外注はとってもいいよ」「本当に忙しければ家政婦頼んだっていいのよ」という人に会って家事の外注への抵抗感がなくなったし、「毎日同じメニューだってOK!」「忙しいときはインスタントでいいじゃん」「洗濯物? 畳まなくてすむいい方法があるのよ」なんて人に出会えたから、必要以上の罪悪感を感じずに働く母をしてこれた。「離婚して幸せになった人はいっぱいるよ。あなたが笑顔でいられるのが子どもにとって一番幸福なんだから」と言ってくれた人たちには、人生を救われたとも思ってる。
小さな世界にいると、価値観は凝り固まっていく。変わろうともがくより、たまには違う価値観の景色や人の中に身を置くことで開ける世界も、あるんだと思う。
そして今回。
48歳の私は一番年下の生徒として、「いいわね、若いって。まだいっぱい残り時間があって何でもできるもの」と言われながらフランス語を習っているのである。「人生とっくに折り返して、あとは下り坂だけ」なんて言ってる友人も、きっと少しまわりの景色を変えれば、また元気になれるのだ。
まだまだこれからなんだもの。
第21回 子育てで「生き直し」(2008.12)
共働き家庭に一日の時間の使い方をアドバイスするというお仕事の依頼があって、先日お子さんが3人いる30代のお母さんに会ってきた。
小4を筆頭に一番下は4歳。一番大変なとき。えらいねえ、がんばってるねえ、とすっかり井戸端モードとなって話し込んでいたら、彼女がこんなことを言う。
「私の実家は自営業で、いつもバタバタ忙しくていやだなあと思っていたのに、自分が親になってみたら結局私もバタバタなんです。幼稚園ママの集まりとかあると落ち込んじゃう。おうちがいつも片付いて、にこにこお菓子焼いて、手際がいい人っているでしょう? それに比べて私は、いつも走り回ってる感じ。これじゃダメだなあ、って」。
「うんうん、そういう気持ちってとてもよくわかる! でもね……」。同じくバタバタしがちな私は思うのだ。それがきっと、自分っていう人間を作ってきたリズムなんだよ、と。あなたにはバタバタ気味のリズムが合っていて、お菓子を焼くママには別のリズムがある。それだけ。ちっともダメなんかじゃないのよ。いいのいいの、それで。
その昔、子どもが生まれたとたんに、夫の言動が大きく変わって驚いたことがあった。そのうち理解した。「父親になった」という気構えで、彼は唯一知っているモデルである自分の父親の言動の記憶を、無意識のうちになぞっているのだ、と。そうして、彼は家長として威圧的になっていき、一方の私は、母と同じようなことを気がつけば言っている自分を発見。どんなに知恵や情報を集めても、結局は自分がリアルに体験したことをどこかで繰り返していることに気づく。
冒頭の彼女の話に戻ろう。
「そうか、バタバタでもいいんだ! そう考えるとすごく楽になりますね。でも私、寂しかったのもホントなんです。だから子どもには同じ思いをさせたくなくて、一緒に過ごす時間をなるべくとりたいなあって思ってがんばってるの」。
親から受け継いだことを繰り返しながら、どこかで満たされなかったことを反面教師にする。子どもを育てる中で、そうやって人は自分の子ども時代を生き直しているんじゃないか、とよく思う。親の夢の肩代わりを子どもにさせてはいけないけれど、自分自身の小さな小さな子ども時代の希望を、今、子どもを育てながらかなえていると思う場面は多い。
たとえば、私はこんなこと。
"目玉焼きは焦がさずに半熟できれいに焼く(苦いのは嫌!)。キャベツはリボンみたいに切らずに、細くふっくら千切りに(あこがれ)。苦手な物を怒りながら無理やり食べさせない(悲しいよ)。子どもが帰ってきたら「おかえり」と出迎える(一人は寂しいんだよ)。朝起きたときにお母さんはにこにこしている(びくびくしちゃうもの)。成績のことばかり言わない。世間体ばかり気にしない。干渉しすぎない(私のこと信じて!)"。
自分のどこかに眠る子ども時代のいづみちゃんは、こうして日々どこかで癒されている。
子育てって、不思議な持ち回りだなあ。息子よ、育てさせてくれて、ありがとね。
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